媒介性の認識論 — 観測が対象を変えるという、知の構造的条件

何かを知ろうとする行為そのものが、知ろうとした対象を変えてしまう ── この避けがたい介在を、本サイトでは 媒介性 と呼んできました。本稿は、その一語を正面から定義し、なぜそれが知的営為の 欠陥 ではなく 構造的条件 なのかを述べる、基礎記事です。

私たちが触れられるのは、つねに「触れたあとの」対象だけだ。

媒介性とは何か

ヘーゲルは媒介(Vermittlung)を弁証法の語彙として使いました。本サイトはそこから弁証法的含意を取り除き、認識論的な構造として定義し直します。

定義(媒介性)。ある系に対する操作 ── 観測・測定・記述・解釈を含む ── は、その意図した出力とは独立に、対象系の状態を変化させる。操作以前の状態は原理的に回復不能であり、私たちが接触できるのは、つねに操作後の変化した状態のみである。

「見る」も「測る」も「書く」も「解釈する」も、対象に何もせず素通りすることはできません。観測は対象に触れ、触れた時点で対象は動く。だから私たちは、手つかずの対象そのものには永遠に届かない。届くのは、いつも自分の操作が混ざった後の姿だけです。

身近な例で言えば ── 上司に「見られている」と感じた瞬間、部下の働き方は変わります(ホーソン効果)。「ご満足いただけましたか?」とアンケートで問われると、問われたこと自体が「満足という物差し」を作ってしまう。健康診断の数値を気にしだすと、生活そのものが変わる。観測は、対象の外に立つ中立な行為ではありません。対象に介入する行為なのです。

別々の領域が、同じ事実を別の言葉で言ってきた

この媒介性の射程は驚くほど広く、複数の学問が それぞれの方言で 同じことを言ってきました。

  • 物理学 ── 観測が系を乱す。不確定性原理も、測定が状態を射影してしまうという測定問題も、媒介性の物理版です。
  • 哲学 ── デリダの 差延。記号は他の記号との差によってしか意味を持たず、確定はつねに先送りされる。私たちは記号の網の外には出られない(決定論的にではなく、相対的にで論じたとおり)。
  • 生命科学 ── 福岡伸一の 動的平衡。生命は流れの中で同一性を保つ。切り分けて止めて観た瞬間、それはもう生きた全体ではない(世界は分けてもわからない)。

別々の天才が、別々の時代に、別々の言語で記述してきた事実は一つです ── 接触は媒介を経る。媒介は対象を変える。

欠陥ではなく、私たちが立っている「場」

ここが本稿の要です。媒介性は、いつか技術で克服すべき 障害 ではありません。知的活動が営まれる 場そのものの性質 です。

私たちは二重の原理的不可能性の 狭間 に立っています。片側では、対象への直接アクセスが閉じている(手つかずの対象には届かない)。もう片側では、媒介そのものの完全な記述も閉じている(自分の見方を、自分の内側から完全には記述できない)。

// ここが核心完全な記述は、その記述を試みる者の内側からは、原理的に不可能だ。だが、この狭間は虚無ではない。許容誤差と再現性をもって使える「場」だ。

直接には届かない。完全には書けない。それでも私たちは、許容できる誤差の範囲を定め、再現性を確かめながら、十分に世界を渡っていける。狭間は、絶望の名前ではなく、作業場の名前です。

二つの媒介 ── モノとコト

媒介の形式は、対象によって二つに分かれます。

  • モノ(物) ── 状態として観測・測定されうる対象。境界は暫定的にせよ画定でき、差は量で書ける。モノへの媒介は 測定
  • コト(事) ── 関係・過程・意味として現れる対象。境界はあいまいで、記号によってのみ捉えられる。コトへの媒介は 記号的解釈

両者は排他的ではありません。同じ現象が、モノとしても測られ、同時にコトとしても解釈される。

桜の開花は、気温と日照の差(モノ)であり、同時に「春が来た」という意味の出来事(コト)でもある。

日本語はこの構造を語源に抱えています。「こと」は「言」── 分節されたもの ── に由来し、こと = もの + 差延の運動の結果 として読めます。デリダが 1960 年代に取り出した差延を、日本語は日常語として既に持っていた、ともいえるでしょう(色即是空を256倍楽しむ方法で見た、関孝和とライプニッツの作用素の話とも響きます)。

そして、この区別から学問の地図が自然に引けます ── 物理学はモノを、哲学はコトを主対象とし、数学はモノとコトの 形式 を扱い、工学はモノを創生してコトを演出する。

では、媒介性のもとで、どう知るのか

直接は届かない。では知的営為はどう成り立つのか。本サイトが繰り返してきた答えは、一つの反復です。

  1. 差を取る(差延) ── ドメイン上の差を取り出し、対象を分節する。
  2. Verification ── 要素として正しいか(仕様どおりか)を確かめる。
  3. Validation ── そもそも目的に合っているかを問う(なぜV&Vは終わらないのか)。
  4. 価値判断 ── どこで十分とするか、誤差範囲とその意味を定める。
  5. フィードバックして、繰り返す。

二点だけ、強調しておきます。

まず、繰り返す理由は「完結しないから」ではなく「状況が変化するから」 です。これは消極的な敗北ではなく、積極的な姿勢です。媒介の場は動き続けるので、知もまた更新し続ける。

そして ── これが媒介性の最終的な帰結ですが ──

価値判断は、形式に先行する。「どこで十分か」は手続きでは決まらない。引き受ける主体が、決める。

媒介性が「完全な記述」を原理的に閉ざすからこそ、最後は形式の外で誰かが決断し、その誤差を引き受けるしかない。媒介性の認識論は、最終的に 責任の認識論 に着地します。

媒介性とは、私たちが世界に触れるたびに世界が少し動く、という避けがたい事実です。それは克服すべき欠陥ではなく、知が営まれる場の条件 ── 直接性と完全性の双方が閉じた、その 狭間 です。

狭間は虚無ではありません。差を取り、確かめ、目的を問い、誤差を引き受けて繰り返す ── その一つの形式が、物理学から工学まで、素粒子の測定から文明の設計まで、同じ形で現れます。より厳密な定式化はプレプリント・シリーズを参照してください。私たちは手つかずの世界には届かない。けれど、媒介の狭間で、十分に深く考えることはできます。

手つかずの世界には届かない。だが、狭間で考えることはできる。