決定論的にではなく、相対的に — 知的営為の普遍形式について

Read in English

私たちは、記号でしか考えられない。言葉、数式、図像、コード ── 何かを何かとして捉えた時点で、すでに記号の差異の体系のなかにいる。だとすれば、知的営為の普遍形式は 相対的 である。

これ以外の形式があるなら、教えてほしい。

本稿はその一点を述べる。決定論的にではなく相対的に ── これは諦めでも相対主義でもなく、記号で考える存在にとって唯一可能な形式の名である。理論的な精密化は別の場でおこなっているが1、ここでは現場の言葉で述べる。


§1 記号の再帰には、底がない

記号の意味は、それ自体には宿らない。他の記号との差異から立ち、別の記号へと送られ、確定を先送りされ続ける。デリダはこれを 差延 (différance) と呼んだ。重要なのは含意のほうである ── 記号の連鎖に、最終的な地面はない。意味を支える絶対の基底点は、原理的に存在しない。

絵にすると、こうだ。単純な漸化式 $z_{n+1} = z_n^2 + c$ を複素平面のうえで反復すると、マンデルブロ集合が描き出される。その縁をどれだけ拡大しても、全体とよく似た相似形が別の倍率でまた立ち現れ、拡大に終わりはない ──「これが最小の単位だ」と言える底の絵柄は、どこにも現れない。記号の再帰もこれに似ている。差を取って次へ送るという一つの操作が、どの倍率でも似た形を生み続け、決して底を打たない。

「決定論」とは、この底のない再帰を、どこかの絶対地で止めたいという欲望である。神の死とともに地面を失った西洋哲学は、代わりの基底を探し続けてきた ── 構造主義は「構造」を、脱構築はその構造すら手放し、現在の分析哲学は「論理と厳密性」を新たな地面に据えようとする2。絶対を別の絶対へ置き換え続けるこの道行きのなかで、脱構築の一瞬だけが「地面はない」と認めた。

そして、その「地面のなさ」を、東洋の思考は古来から出発点にしていた。縁起、空、純粋経験、関孝和の和算 ── いずれも実体的な基底を立てず、関係と差異から世界を捉える。西洋が二千年かけてたどり着いた場所は、東洋が始めた場所だった、とも読める。

§2 だから、公理化できない ── 原理的に

検証 (Verification) と妥当性確認 (Validation) を、必要条件と十分条件からなる形式的な公理系に還元できないか ── そう試みると、必ず崩れる。

必要・十分条件が成り立つには、観察者に依存しない客観的な評価軸が要る。ところが 主観を原理的に排除できない。仕様は自然言語で書かれ、その解釈は判断主体に依存する。「合目的である」という判定そのものが、ステークホルダーの意図に依拠している。加えて、要素に還元して検証しても、統合時の創発は部分から導けない(非加法性)。十分に複雑な系の無矛盾性は、その系の内部からは証明できない ── ゲーデルと同型の構造がここにある。

これは「まだ公理化できていない」のではない。原理的に、しない。底のない再帰を形式系で閉じようとすること自体が、できない相談なのである。

底が無いことと、検証が終わらないことは、同じ事態である。

§3 だから、V&V ── 主体を内包する

形式系として閉じられない以上、判断主体を内包せざるを得ない。主観は、排除すべき汚染ではなく、構成要素である。これは敗北ではなく、より正直な定式化だ。形式に閉じようとするほど、「誰が検証するのか」という主体が外へ押し出され、見えなくなる。内包すれば、その責任が可視化される。

$$ \text{V\&V}(S,\ \text{判断主体},\ \text{文脈}) \;\vdash\; \text{正当性の暫定的確認} $$

「暫定的」は差延的である。文脈が変われば、判断は更新される。V&V は一度で完結するものではなく、文脈の変化とともに走り続ける。

§4 スケールは、積分区間である

差延が示すのは、知的営為の対象は どんなスケールでもよい ということだ。語の意味にも、ひとつの設計判断にも、知の歴史にも、「差を取って意味を立てる」という同じ操作が働く。だから、知的営為の 構造はスケーラブル である ── ひとつの形式を、選んだ任意のスケールに適用できる。

観測されるものは、つねに積分である。私たちが見ているのは個々の素過程ではなく、累積された効果のほうだ。スケールを選ぶとは、どの区間で和分するかを選ぶことにほかならない。

カメラの露光を思えば、手触りが掴める。写真とは、シャッターが開いている あいだ の光を積分したものだ。長く開ければ夜景や光の軌跡が写り、短く切れば水滴が空中で止まる。同じ被写体でも、どの区間で積分するかで写るものが変わる ── スケールの選択とは、まさにこれである。微分が色即是空(現象の列から差分構造を取り出す)なら、積分区間の選択は空即是色(差分構造を累積して現象を復元する)であり、その復元には任意定数 C ── すなわち決断 ── が必ず生じる。

ただし、スケールの選択は無制約の自由ではない。物理が示す原理的制約 ── 不確定性原理(下限の観測不能)、自発的対称性の破れ(秩序が立つ倍率の存在)── が、選べる、あるいは意味を持つスケールを縛る。だから「目の前で起きていることから考える」とは、現象から出発し、興味の対象に適切な倍率を、制約の下で選び取ることである。

§5 同じ操作の、三つの顔

この一つの操作は、分野ごとに別の顔で現れる。本サイトの三部作は、その三つの投影である。

差延が許し、物理が縛り、工学が迫る。その三つ組のなかで、形式を保ったままスケールを選び取る ── これが相対的に考えるということである。

§6 決定は、自分が引き受ける

決定は系の外へ出る、と述べた。しかし「外」とは、別の上位審級でも、より強い公理系でもない。底がない以上、決定を根拠づけてくれる外部は、どこにも存在しないからだ。外部化の終点は、引き受ける主体としての自分自身である

隠れる地面がないからこそ、決めた者が責任を負う。V&V で「合目的だ」と区切る行為は、証明できない残余をまるごと引き受ける行為にほかならない。決断は、責任に帰着する。これが相対性の倫理的な芯であり、プラグマティズムが「目の前から考え、その帰結を引き受ける」と言うときの中身である。

決めた者が、引き受ける。

知的営為の普遍形式は相対的であり、その構造はスケーラブルである。私たちが立つのは、特定のスケールで得られた「結果」の上ではない。スケールを選び、形式を保って操作し、決定を引き受ける ── その反復の上である。

決定論的にではなく、相対的に。これは弱さの告白ではなく、記号で考える存在が、底のなさを引き受けながらなお頑健であろうとするときに、唯一とりうる構えである。


  1. 媒介性の操作的な定義、差延の離散形式での定式化、検証と妥当性確認の非対称性の形式的な扱い、および OODA ループの一般化との接続については、著者の Zenodo プレプリント・シリーズを参照 ── プロレゴメナ (10.5281/zenodo.20173238)、認識論的基礎 (10.5281/zenodo.20122696)、ガバナンス設計基礎原理の適用 (10.5281/zenodo.20122677)、レター版 (10.5281/zenodo.20172607)。一覧と各論文の関連記事は本サイトの プレプリント ページにまとめている。連続を扱わず和分と差分で扱い、測度論的な厳密性の議論を意図的に括弧に入れる選択は、弱さではなく工学的プラグマティズム (Bridgman / Peirce / Quine の系譜) に基づく筋を通した選択である ── この点もプレプリント側で論じている。 

  2. ただし分析哲学も Quine 以降は反基礎づけ・全体論に振れており、必ずしも「新しい絶対地」を据える営みとは限らない。「目の前から考える」プラグマティズム (Bridgman / Peirce / Quine の系譜) への回帰という側面も持つ。