WYSIWYGからの卒業 — ワープロソフトをやめて TeX に移った話

20 数年前、自分のホームページにこう書いていました2

TeX の最大の魅力、それは「原稿を書くことだけに集中できること」である。

格好をつけた言葉ではありません。道具の世話に注意を取られるほど、書く中身がおろそかになる。ワープロソフトに手を焼いて、そう考えただけです。書くことに集中できるかどうか。道具を選ぶ基準はそれだけで、昔から変わっていません。同じことは認知科学やライティング理論でも語られ、本サイトの思考と作業を分離するがそれにあたりますが、私はそこから判断を借りたわけではありません。本稿はその経緯の記録で、手順は腐り、ソースは残るで発掘した TeX ガイドの出発点でもあります。理念なき手順は腐り、洗練された道具と考え方が残る ── 本稿も、その一例です。

§1 ワープロソフトで、限界が来た日

学部の 4 年生でした。卒業研究は超伝導体の磁化特性で、レポートも数式もワープロソフト1で平和に書いていた ── ある課題に出くわすまでは。

「超伝導における電子と格子の相互作用について述べよ」。式番号もリファレンスもきちんと付けて、10 枚ほどに気合いを入れてまとめにかかりました。そこで、ワープロソフトの限界にぶつかりました。当時のワープロソフトには 数式番号を自動で振る機能がなく、式を一つ足すたびに、以降の番号を手で打ち直す。10 枚も書くと、動作が重くなって、一文字打つたびに待たされる。せっかちな性分には、これがこたえました。

書きたいのは物理の中身なのに、注意の大半が 番号の管理重さとの我慢比べ に吸い取られていく。中身を考えるのが先で、道具の世話は後のはずです。順序が逆でした。

§2 冬休みは、スタイルファイルの自作で消えた

もう無理だな、と思っていた頃、情報工学の同級生から「TeX というものがある」と聞きました。数式はきれいに出る、式番号は自動で振られる、リファレンスも自動。もうこれしかない、と飛びつきました。

ただ、時期が悪い。論文を書き始めねばならない 12 月。悠長に環境を申請している暇はなく、市販のインストールキットを買ってきて自分で入れました。結果、2 週間の冬休みは、TeX の導入と卒論用スタイルファイル(いまで言う cls ファイル)の自作でまるごと消えた。正月も机に向かっていました。

字面だけ見れば、割の悪い使い方です。文章を一行も書かないうちに、休みを全部、組版環境に注ぎ込んだのだから。けれど、この冬に作った仕組みは、その後何年も使えました。そのとき書いたソースは、四半世紀後もコンパイルできた。短期の損は、長い目で見れば十分に報われた、ということです。

§3 基準は、書くことに集中できるか

TeX に移って、はっきりと分かったことがあります。

ワープロソフトでは、文章を直すたびにレイアウトが大きく動いて苛立つ。数式の番号が気になって、式を足すのをためらう。書くことそのもの以外に、ずっと注意を取られている。TeX は、そこを切り離してくれた。「ここは見出し」「ここは数式」と構造だけを書けば、版面は機械が決める。だから、書くときは書くことだけを考えられる。

当時の私は、これを素朴にこう書きました ──「文書を書く際に、文書を書くことに集中する。こんな当たり前のことが、ワープロソフトではできない」。

いま思えば、これは WYSIWYG への不満 として誰もが抱くものでしょう。私の基準ははっきりしていました。書くことに集中できるか。それだけです。同じことは理論でも語られています。経済学者 Allin Cottrell は「ワープロソフトは見た目の制御を与える代わりに、構造の制御を奪う」と書き、認知科学は「注意は単一チャンネルで、思考と作業を同時に走らせると両方が劣化する」と裏づけている。本サイトの思考と作業を分離するは、それらを束ねたものです。読んでも、そうだよね、と思うだけでした。私が誰かより上手に言い当てたわけでも、誰かに教わったわけでもありません。同じことを見ていた、というだけです。

正しさを誰かと比べて確かめたいとは思いません。謙虚でありたいとは思いますが、判断の軸だけは昔からぶれていない。「書くことに集中する」は、借りものの理屈ではなく、自分の基準でした。あとは、判断したことを淡々と言葉にしてきただけです。

§4 怠け者の設計 ── 自動化と、一貫性への愛

もう一つ、当時はっきり書いていたことがあります。

私は、怠け者です。コンピューターを使うからには、楽ができなくてはいやなのです。

文献カードを作る、ページを数えて目次を作る、数式の参照を数える ── そういう作業は、できればしたくない。TeX はそれを自動化してくれる。だから使う。自動化の動機は、勤勉ではなく怠惰だった。これは本サイトの書かない設計── 偉大な書き手ほど「自分で書かずに済ませる」── の、ずっと素朴な原型だと考えられます。楽をしたいから、仕組みに任せる。

同じ怠惰は、OS の選び方にも出ました。Linux から入り、やがて FreeBSD に落ち着いたのですが、その理由が自分でも気に入っています ──ディレクトリツリーの統一性と、ディストリビューションの一貫性が好きだったから/etc の中のあまりの整然さに驚いた、とまで書いている。一貫した造りなら、覚えることも迷うことも少なく、考える邪魔をされない。UNIXという考え方が説く一貫性を、私はその実利で選んでいた、ということです。

ついでに言えば、当時の私はこうも書いていました ──「楽ができる手段を、常に選択している」。道具に純潔は求めません。必要なら別の道具も無節操に使う。それでも、何を「楽」と呼ぶかを決めていたのは、考える邪魔をしないこと ── その一点でした。怠惰と、考えることを止めたくないという感覚は、私の中で同じものでした。

私は思想で TeX や UNIX を選んだのではありません。書くことに集中できるか、考える邪魔をしないか。それで選んだだけです。基準は昔から一つで、ぶれたことがありません。

ワープロソフトを捨てたあの冬に残ったのは、一つの基準でした。書くことに集中できる方を採る。言葉にすればありふれていますが、20 年あまり、私はこの基準を手放したことがありません。

同じ基準は、本サイトの別の記事にも通っています。思考と作業を分離するでは認知科学の言葉で、手順は腐り、ソースは残るでは時間軸の話で、書かない設計では設計判断として。理屈が先か実感が先か、という話ではありません。どれも、同じことを別の角度から見ているだけです。

もし誰かが「理屈はよく分からないけれど、この道具だと書くのが楽だ」と感じているなら、その判断は信じていい。正しさを誰かと比べる必要はありません。私も、書くことに集中できるかどうかだけを見て動き、それを言葉にしてきただけです。

理屈が先でも、実感が先でもありません。書くことに集中できるか。それだけです。

参考文献


  1. 当時「ワープロ」といえば文書作成専用機(ハードウェア)を指すことも多かった。本稿では区別のため、PC 上で動く文書作成ソフト(一太郎・Word など、見たままを編集する WYSIWYG エディタ)を「ワープロソフト」と表記する。 

  2. 本稿は、筆者が 2002 年頃に個人サイトに記していたエッセイ「私と TeX」「私と FreeBSD」を下敷きに、現在の視点から書き直したもの。引用符で示した文は当時の原文に基づく。Allin Cottrell の WYSIWYG 批判、Shiffrin & Schneider の統制処理/自動処理、梅棹忠夫らの典拠は、本サイトの思考と作業を分離するの参考文献を参照。