対称性が壊れるとき — 物理学が示した世界の階層性
複雑なシステムを扱う現代の科学・工学は、しばしば二つの誘惑のあいだで揺れているといえるでしょう。すべては基礎物理に還元できるという確信と、各階層には固有の論理があるという反証です。本稿は、20 世紀中頃の物理学が前者から後者へと自身の重心を移していった 15 年間 ── BCS (1957) から Anderson (1972) まで ── を辿ります。「対称性の破れ」という一つの概念が、超伝導から素粒子質量、さらには階層性そのものの哲学へと伸びていく経路は、現代における還元主義論争の地平を照らし返すと読むことができるでしょう。
鉛筆を立てる
対称性の破れという概念は、奇妙な命題を担っています ── 法則は左右対称なのに、結果は一方に偏る。
身近な例で言えば、机の上で鉛筆を先端で立ててみればわかるでしょう。重力法則は完全に回転対称です。けれども鉛筆は必ずどこかに倒れる。どの方向に倒れるかは、初期条件をどれだけ精密に定めても 原理的に予測できません。
20 世紀後半の物理学は、この何でもない現象が物質の振る舞いの根幹に潜んでいることを発見した、と整理できます。
BCS 理論 (1957) — 超伝導という困惑
絶対零度近くで電気抵抗が完全に消える。1911 年に発見されて以来、超伝導は半世紀近く物理学者の謎であり続けたといえるでしょう。
1957 年、Bardeen・Cooper・Schrieffer の三人が答えを出しました1。電子は格子振動 (フォノン) を介して ペアを組む (Cooper 対) と説明されます。任意に小さい引力でも、フェルミ面近傍ではペア形成が必然である。ペアの形成エネルギー (ギャップ関数) は
$$\Delta \sim e^{-1/N(0)V}$$
の形を取ります。$V$ は引力の強さ、$N(0)$ はフェルミ面における状態密度です。注目すべきはこの 指数関数の特異性 だといえるでしょう。$V \to 0$ で展開できない。摂動論 (少しずつ補正する方法) では永遠に到達できない。BCS の状態は、自由電子の状態を「少し補正した」ものではなく、世界が 質的に 変わっていると読むことができます。
この相転移は、電子系の $U(1)$ ゲージ対称性の自発的破れだと整理されています。
NJL 理論 (1961) — 素粒子質量への波及
南部陽一郎と Jona-Lasinio は、BCS 理論のこの構造を素粒子物理に 輸出 しました。1961 年の論文の題はそのまま彼らの戦略を告げています ──「超伝導とのアナロジーに基づく素粒子の動力学的モデル」(Dynamical Model of Elementary Particles Based on an Analogy with Superconductivity)2。彼らは素粒子の質量生成機構を自発的対称性の破れとして説明したわけです。
カイラル対称性 ── 質量を持たないクォークの左右対称性 ── は、ラグランジアン (運動方程式) のレベルでは保たれている。けれども基底状態 (真空) はこの対称性を破る。質量はこの「破れ」の現れだと読むことができるでしょう。
同じ 1961 年、Goldstone は破れた連続対称性に伴う質量ゼロの粒子 (Nambu-Goldstone ボソン) を予言しました3。1964 年には Higgs と Englert らがゲージ対称性の破れを介して質量を持つベクトルボソンを生む機構を提示します45 ── 2012 年に LHC で発見されることになる、あの Higgs ボソンです。
1957 年から 1964 年までの 7 年間に、超伝導の理論的構造が物質の最も基本的な層に伸び、20 世紀後半の素粒子物理学の枠組みを規定したと整理できるでしょう。
Anderson (1972) — 階層は還元されない
10 年後、固体物理学者の P. W. Anderson は短い綱領的論文を Science に寄稿しました6。タイトルは “More is Different” ── 多いことは違うことだ。論文は次の一行で問題提起を行います。
還元主義の仮説は、哲学者のあいだではなお論争の対象であるかもしれないが、活動中の科学者の大多数のあいだでは、ほとんど無条件に受け入れられている。
そして Anderson は、その「無条件の受け入れ」を物理学者の立場から疑います。要素を完全に把握しても、それが大量に集まったときに何が起こるかを予測できる保証はない。化学は物理学に還元されず、生物学は化学に還元されず、社会科学は生物学に還元されない ── 各階層には固有の基本原理があるという主張です。
これは要素還元主義 ── すべては素粒子の法則に帰着する ── という近代科学のドグマに対する、物理学者からの内部告発だったと位置づけられるでしょう。創発 (emergence) は不可避である、というのが論文の含意です。
Anderson はこの主張を抽象論ではなく 自身の研究 から導いています。超伝導の理論的整備、共鳴原子価結合 (RVB) のアイデア、そして自発的対称性の破れの理論的解釈 ── これらは「下からの還元」では到達できない領域に物理学者を連れて行ったと整理できます。
物理学が世界に与えた構造
1957 年の BCS から 1972 年の Anderson まで、わずか 15 年。この期間に物理学は「対称性の破れ」を物質の基本構造として確立したといえるでしょう。
法則の対称性は保たれていても、結果には特定の方向が選ばれる。完全に予測できないが、原理的に必然である ── この「予測不能性と必然性の同居」が、それ以前の機械論的世界観では収まりきらない構造を物理学に持ち込んだ、と読むことができます。鉛筆が倒れる方向は計算できないけれども、倒れること自体は計算できるわけです。
Anderson が指摘したように、要素を細かく見れば全体が見えるわけではありません。各階層には固有の基本原理があります。対称性の破れは、その階層構造を生成する事象そのものだといえるでしょう。
20 世紀後半の物理学は、自身の発見によって、要素還元主義から離脱した、と整理できます。それ以降、私たちが世界をどう記述するかという問いは、物理学の内側からも、外側からも、書き直されつつあるといえるでしょう。
ここから少し、対称性の破れと創発の系譜を 2026 年の状況で読み直してみたいと思います。深層学習モデルの内部構造が「個々のニューロンの線形演算」に還元できないことは、近年の機械的解釈可能性 (mechanistic interpretability) 研究が繰り返し示してきた論点です。多くの単純素子から、それらの単純な記述には還元できない振る舞いが立ち上がる ── これは Anderson の “More is Different” を 21 世紀の人工系で再演したものだと読むことができるでしょう。
物理学が 1957–1972 年に発見したのは、特定の物質系の理論ではなく、多体系一般に現れる階層構造の生成原理 だったと整理できます。その射程は、物質を超えて、人工知能や社会システムにも届きつつあるといえるでしょう。
参考文献
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Bardeen, J., L. N. Cooper, and J. R. Schrieffer. “Theory of Superconductivity.” Physical Review, vol. 108, no. 5, 1957, pp. 1175–1204. ↩
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Nambu, Y. and G. Jona-Lasinio. “Dynamical Model of Elementary Particles Based on an Analogy with Superconductivity. I.” Physical Review, vol. 122, no. 1, 1961, pp. 345–358. ↩
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Goldstone, J. “Field Theories with «Superconductor» Solutions.” Il Nuovo Cimento, vol. 19, no. 1, 1961, pp. 154–164. ↩
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Higgs, P. W. “Broken Symmetries and the Masses of Gauge Bosons.” Physical Review Letters, vol. 13, no. 16, 1964, pp. 508–509. ↩
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Englert, F. and R. Brout. “Broken Symmetry and the Mass of Gauge Vector Mesons.” Physical Review Letters, vol. 13, no. 9, 1964, pp. 321–323. ↩
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Anderson, P. W. “More Is Different.” Science, vol. 177, no. 4047, 1972, pp. 393–396, p. 393 ── “The reductionist hypothesis may still be a topic for controversy among philosophers, but among the great majority of active scientists I think it is accepted without question.” ↩