マクロ経済は、ミクロの「痕跡」である — 貨幣・契約・期待という差延作用素

「マクロ経済はミクロの集計だ」── 直感的には正しそうです。一人ひとりの選択を足し上げれば、経済全体になるはずだ、と。けれども経済学の内側には、この直感を原理的に否定する定理があります。本稿は、本サイトの枠組み ── 差延、媒介性、V&V ── を通して、マクロとミクロの関係を読み直します。

マクロは、ミクロの足し算ではない。差異化され、先送りされたミクロの「痕跡」だ。

マクロはミクロの集計ではない ── SMD定理

Sonnenschein–Mantel–Debreu(SMD)定理が示したのは、衝撃的に単純な事実です ── 個々の合理的主体の需要を集計しても、市場全体の超過需要関数はほとんど任意の形を取りうる。ミクロの性質(合理性・選好)は、マクロの形をほとんど制約しない。

つまり「ミクロを精密に積み上げればマクロが出る」という還元のプログラムは、原理的に閉じません。一人ひとりがどれだけ合理的に動いても、全体は誰も意図しない方向へ荒れる ──「みんなが賢くなれば市場は安定する」という直感が、ここで裏切られます。マクロはミクロの 総和 ではない。では何なのか。

マクロは「痕跡」である ── 貨幣・契約・期待は差延作用素

ここで差延の出番です。デリダの 痕跡(trace) ── 起源そのものは決して現前せず、差異化と先送りの だけが残る ── を経済に持ち込みます。

マクロ経済とは、無数のミクロな取引が、空間的に差異化し(誰と誰の間で)、時間的に延期した(いつ清算されるか)、その痕跡です。そしてその差異化と延期を担う装置が三つあります。

  • 貨幣 ── 交換を 先送り する。いま売って、あとで買う。貨幣は「延期された交換」の物質化です。
  • 契約 ── 義務を 先送り する。いま約束し、あとで履行する。
  • 期待 ── 実現を 先送り する。未来の値を、いま価格に折り込む。
貨幣・契約・期待は、いずれも「差を取り、確定を先送りする」── すなわち 差延作用素 $\hat{D}$ の、物質化されたオペレータとして働きます。経済とは、差延が貨幣や契約という形で *物になった* 場なのです。

色即是空を256倍楽しむ方法で見た、差延を作用素として読む視点が、ここでは経済の現象論としてそのまま立ち上がります。

観測が市場を変える ── 反射性は媒介性である

経済には、もう一つ本サイトの核と直結する性質があります。観測が対象を変える

ジョージ・ソロスは、市場参加者の信念が市場そのものを変える現象を 反射性(reflexivity) と呼びました。「上がると皆が思う」ことが、実際に価格を上げる ── バブルを思えば一発で分かります。観測(予想)が、対象(価格)を作ってしまう。これは 媒介性の認識論で論じた媒介性 ── 知ろうとする行為が対象を変える ── の、市場版にほかなりません。「来年この駅前が再開発される」と皆が信じれば、土地の値は 今日 もう動く。未来が、いまの価格に現前してしまうのです。

そしてルーカス批判は、これを政策の側から言います。政策のレジームを変えると、人々の期待が変わり、推定したモデル自体が無効になる。過去のデータで検証(Verification)したモデルは、政策という介入が世界を変えた瞬間に、目的への妥当性(Validation)を失う。これは なぜV&Vは終わらないのかで論じた V&V の非対称性そのものです。

// 同じ構造の、別の顔SMD定理・ソロスの反射性・ルーカス批判・システミックリスク ── これらは別々の問題に見えて、「観測と介入が対象を変える」という同一の構造的条件の、異なる発現だ。

だから、経済は遠平衡の散逸構造である

ミクロに還元できず、観測が対象を変え、確定が常に先送りされる ── こうした系は、平衡には落ち着きません。プリゴジンのいう 散逸構造、すなわち流れの中でかろうじて形を保つ遠平衡の定常状態として読むのが自然です。福岡伸一の動的平衡が生命について言ったことを、経済について言い直しているのです。

ピケティの $r > g$ も、この視点では「差延の痕跡が一方向に蓄積する力学」として読めます(『21 世紀の資本』書評)。富の集中とは、差異化と延期の痕跡が、消えずに積もり続ける現象です。

マクロ経済は、ミクロを足したものではありません。ミクロが差異化し、貨幣・契約・期待という差延作用素を通じて先送りされた、その 痕跡 です。だからミクロへの還元は閉じず、観測は市場を変え、確定は永遠に先送りされる。

経済を「正しく予測すべき機械」として扱うと、この構造に何度もつまずきます。むしろ経済は、差延が物質化した遠平衡の場 ── 観測が介入であり、介入が対象を変える場 ── として診るほうが、はるかに見通しがよい。より厳密な定式化(mean-field game と異質主体モデルの同型、BCS ギャップ方程式との対応など)はプレプリント・シリーズを参照してください。

経済は予測する機械ではない。差延が物になった、痕跡の場だ。