世界は分けてもわからない — 福岡伸一が示した動的平衡の生命観

分子生物学者・福岡伸一 (1959–) は、2009 年に講談社現代新書から『世界は分けてもわからない』1 を出しました。タイトルがそのまま命題になっている本です。生命を知ろうとして、部分に分けて調べる。けれども、分けるときに引いた境界そのものが、生命の本来の姿をゆがめてしまう。還元主義への根本からの批判が、この一行に詰まっています。

本書が扱うのは、生物学の方法への批判だけではありません。芸術・文学・思想への著者の博識が織り込まれ、「分けてもわからない」 という命題は、近代科学がものを知るときの前提そのものへの問い直しへと広がっていきます。本稿では、その核心にある 動的平衡 という生命観を整理します。

動的平衡 ── Schoenheimer の発見

著者の生命観の中心には、1930 年代後半から 1940 年代初めにかけての、ある実験があります。ハーバード大学の生化学者 Rudolf Schoenheimer (1898–1941) は、安定同位体 (重窒素 ${}^{15}$N) を使ったトレーサー実験を行いました。そして、体の中のタンパク質が 絶えず分解と合成を繰り返している ことを示しました4。

実験の組み立ては単純です。重窒素で目印をつけたアミノ酸を、成熟したラットに与えます。数日後に、体の組織を調べます。エネルギーの出入りで見れば、成熟した個体は摂った分とほぼ同じ量を出しています。だから組織は「変わっていない」はずです。ところが実際に調べると、標識された原子が体中の至るところに広く取り込まれていた。全身の組織がいつも壊され、組み直されている。そのことが、トレーサーによって目に見えるようになったのです。

Schoenheimer の発見が示したのは、生命は 構造としての存在 ではなく 流れとしての存在 だ、ということです。彼自身はこれを the dynamic state of body constituents と呼びました4。著者はこの考えを 動的平衡 という日本語で受け継ぎました。そして、生命を「流れの中で形を保つもの」としてとらえる枠組みを、徹底して押し進めていきます。

生命は、構造ではなく流れの中の形である。

還元主義の限界

近代生物学の標準的な方法は、還元主義 (reductionism) です。生命を細胞に分け、細胞を分子に分け、分子を反応に分け、反応を物理化学の法則に還元する。この階段を降りていけば、生命の本質にたどり着ける。そういう前提です。

著者の批判は、この前提そのものに向かいます。タイトルの「分けてもわからない」が指しているのは、還元の階段を降りる行為が、降りる先に到達できる保証を持っていない ということです。ものの知り方そのものに関わる指摘だ、と言ってよいでしょう。

理由は動的平衡から出てきます。生命が静的な部品の集まりではなく、絶えず分解と合成を繰り返す 動的な流れ だとします。すると、ある瞬間を切り取って分子まで分解した時点で、流れは止まってしまいます。分けて見えるのは「流れていた頃の痕跡」であって、流れそのものではありません。

著者はこの限界を、「境界を引くことが対象を変える」という形で何度も強調しています。膜を切り、細胞を分け、分子を取り出す。その操作のたびに、本来の生命の姿が失われていきます。観察と対象は互いに独立している。そう仮定する古典的な実在論は、生命科学の現場ではもう成り立たない、ということになります。

アートと文学からの照射

本書の特徴は、生物学の議論が、芸術・文学・哲学への参照によって何重にも照らし出される点にあります。著者は分子生物学者です。それでも、フェルメール『デルフトの眺望』や Memento Mori の図像学、ナボコフの蝶のコレクション、さらには村上春樹の小説まで、自在に引いてきます。そうして「全体は部分の総和ではない」という命題を、くり返し確かめていきます。

これらの参照は、ただの飾りではありません。還元主義の限界が自然科学だけの問題ではない ことを示す例になっています。絵画は、色の集まりに分解しても絵画として理解できない。小説は、語の集まりに分解しても小説として読めない。生命は、分子の集まりに分解しても生命としてつかめない。三つは同じ形をしています。

「世界は分けてもわからない」は、生物学のスローガンとしてではなく、全体性 (wholeness) を扱う認識論の宣言 として読むのがよいと私は考えます。

全体は、部分の総和ではない。

著者の方法論的位置づけ

著者は、分子生物学の最先端で研究を続けながら、その方法への根本からの批判を本として出し続けてきました。こうした書き手は、多くありません。先行作の『生物と無生物のあいだ』(2007)2 や『動的平衡』(2009)3 と本書は、同じ命題を別の角度から論じた、三部作のような関係にあります。

実験室での仕事は、還元主義のやり方に従います。タンパク質を精製し、遺伝子をクローニングし、酵素の活性を測る。その一方で、そのやり方を外から見直す目を持ち続ける。この二重の立場は、いまの生物学者によくある葛藤を、そのまま映しているのかもしれません。本書の独自性は、その葛藤を専門書ではなく、一般の読者に向けた本として書いた点にあります。


ここからは、本書を 2026 年の状況と、本サイトのほかの記事とのつながりで読み直してみます。

「分けてもわからない」という命題は、生物学だけの話ではありません。20 世紀後半の物理学が、別の道筋でたどり着いた認識と並んでいます。本サイトの記事 対称性が壊れるとき — 物理学が示した世界の階層性 で扱った P. W. Anderson の “More is Different” (1972)5 は、同じ命題を物理学の側から立てたものです。要素を完全に知っていても、それがたくさん集まったときに何が起こるかを予測できる保証はない。化学は物理学に還元されず、生物学は化学に還元されず、社会科学は生物学に還元されない。

物理学者の Anderson と、生物学者の福岡。二人は学問の背景も、論じる対象も違います。けれども、立てている命題は同じ形をしています。還元の階段は、ある段に達したとき新しい原理が立ち上がる場所がある。その段を見落とせば、上の階の現象は説明されないまま残ります。二人の一致は、大きな流れを示していると私は考えます。20 世紀後半から 21 世紀にかけて、自然科学の重心が、要素還元主義から 創発 (emergence) を含む階層論 へと移っていった流れです。

本書を 媒介性の四つの肖像 — ヘーゲル・ソシュール・デリダ・ハイゼンベルク と並べると、もう一つの並行関係が見えてきます。ハイゼンベルクは、観測が対象を避けようもなく変えることを示しました。福岡は、分割が対象を避けようもなく変えることを示しています。観測も分割も、対象を「ありのまま」につかむことを妨げます。そうだとすれば、両者は 媒介性 (Vermittlung) の生命科学版と物理学版です。

そして、本書を 記録を標準化する や 思考と作業を分離する と並べると、いまの知的な仕事への含意が見えてきます。標準化と分節は強力な道具です。けれども、それが対象の本来の姿を歪めるリスク をいつも伴います。記録を標準化すると、文脈が失われる。思考を作業から切り離すと、連想が失われる。著者の動的平衡論は、分けることに伴うこうした代償に気づかせてくれる枠組みにもなります。

「世界は分けてもわからない」。この命題は生物学の議論を超えて、近代科学がものを知るときの態度そのものを問い直しています。いまの知的な仕事に対しても、その重みは変わっていません。

参考文献


  1. 福岡伸一『世界は分けてもわからない』講談社現代新書 2009、講談社、2009 年。 ↩

  2. 福岡伸一『生物と無生物のあいだ』講談社現代新書 1891、講談社、2007 年。動的平衡概念を一般読者向けに導入した先行作。 ↩

  3. 福岡伸一『動的平衡 ── 生命はなぜそこに宿るのか』木楽舎、2009 年。 ↩

  4. Schoenheimer, Rudolf. The Dynamic State of Body Constituents. Edward S. Hayes Lectures, Harvard University Press, 1942. 本書はシェーンハイマー没後 (1941 年自死) に Sarah Ratner と Hans T. Clarke が編集した連続講義の遺稿。重窒素 ${}^{15}$N トレーサーによるタンパク質代謝動態研究の集大成。 ↩↩

  5. Anderson, P. W. “More Is Different.” Science, vol. 177, no. 4047, 1972, pp. 393–396. 各階層には固有の基本原理があり、要素還元主義の限界を物理学の内側から指摘した綱領的論文。 ↩